愛と生を生きる

2015年秋新規がKinKi Kidsへの愛を語ります。Twitterは@lovelife77_k3

「ナイツテイル―騎士物語―」初見の感想と解釈

お久しぶりです。
ブログ絶賛放置状態ですが、ナイツテイル感想、例によって長文です。


世界初演って、演じる方だけでなく、観る方にも定まったものがなくて、いろいろと想像の余地があるのが楽しい。
舞台は気が向いたら観に行くけど地方在住ゆえに限度があり、ストーリーを楽しむけど俳優さんは最近ちょっとずつ気にし始めた程度、シェイクスピアは子ども向け抄訳で有名どころを一通り読み、あとは映画や舞台の映像化をいくつか見たことがあるかな、という人の初見の感想と解釈。

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私の初ナイツテイルは、帝国劇場、20188月18日(土)の夜公演。
光一さんファンの私は、オープニングで後ろの方の暗がりにそっと現れた音月桂さんを目にした瞬間、「アルテミス?!」と目を奪われ、アーサイトとパラモン並みに瞬間芸で恋に落ちた。
凛として気高い美しさや、ドレスの色合いや毛皮を羽織ったスタイルも私の思うアルテミス(例によって子ども向け抄訳のギリシャ神話の本で得た、月と狩りと純潔の女神でダイアナとほぼ同一、という知識)そのままで、アーサイトとパラモンの俺が先だ論争にも、私はオープニングからだから二人より早いもん!と謎のマウンティングをしながら観た。
ごめんなさいこーちゃん。おばかでかっこよくて可愛かったよ。
チョーサーの「カンタベリ物語」の中の「騎士の物語」と、戯曲の「二人の貴公子」を読んでいたけど、プレビュー公演が始まってみると、どうも原作と変わってハッピーエンドらしいという情報が流れてきて、それって「夏の夜の夢」じゃ?と思う。
うっかり雑誌で見ちゃった緑の衣装の光一さんは「夏の夜の夢」に登場する妖精のパックにしか見えないし。
あの原作から何を足し算して、何を引き算したらハッピーエンドになるんだろう?というのが、ナイツテイルを観る最大の楽しみだった。
光一さんも、それぞれの俳優さんもアンサンブルもみなさま素晴らしくて、でもまだ細部まで観るほどには余裕がないので、ここで演じられる「騎士の物語」はどんな物語なんだろうと考えてみたのが、今回の記事のメイン。


戯曲を読んだ時に消化不良だった部分がきれいに伏線回収されて、作者が言いたかったけれど種が蒔かれたままになっていた部分が、しっかり芽吹いてみんなハッピー、という印象。


ライバルの物語、男女の物語、と括ると話は簡単だけど、それだけで終わらせたくない感じが私の中にあって、ナイツテイルは2種類の愛の物語では、と考えている。
同じ価値観であることを尊び、同じ時間を共にしてきて生まれる愛。
違う価値観であることを尊び、これから同じ時間を共にしていくための愛。
一般的には人間の精神発達は児童期・思春期の同性との友情から成人期の異性愛へ段階的に発達していくと考えられているけど、それを言っちゃあおしまいよ、なので今回は省略。


さて前者の、同じ価値観であることを尊び、同じ時間を共にしてきて生まれる愛。
アーサイトとパラモン、エミーリアとフラヴィーナ。
シーシアスとピリソス?も戯曲ではアーサイトとパラモンに勝るとも劣らない男の友愛をエミーリアがヒポリタに語っている。
(確かにそんな熱い気持ちがなければ、王妃の親族を迎えにというと平和だけど、こちらが人質として女王を奪ったばかりの元敵国へこのタイミングで乗り込まないと思う。世界史的にどうか忘れたけど、劇中の台詞からはこの時点のアテネよりスキタイの方が文化水準が高いようなので(そういえば世界史の資料集で見た金細工の素晴らしい装飾品はスキタイだっけ?)、親族もろとも技術者を連れてきて取り込みたいという意図もあるのかも)
ヒポリタと妹たち、も前者の愛に加えてよいのかもしれない。


闘いに生き名誉を重んじる男たちのあり方、花園に住む少女たちの友愛、みんな幼い頃から時間を共にして、同じ価値観を生きている。
同じであって違う、違っていて同じ、を尊ぶ関係。
実は違いはところどころに存在しているのだけれど、「同じ」であることに重きを置いているし、お互いの「違い」も、結局自分の中にその部分が存在していて、お互いがお互いを映しあっている。
精神的に融合したまま、未分化な危うさがある。


その辺りが色濃く描写されているのがアーサイトとパラモンの関係。
テーベで、牢で、森で、戦い前夜のアテネの酒宴で、2人が一緒に過ごしている時は2人なのにまるで1人のように息が合っているけど、単独になると、2人の違いがくっきりと見えてくる。
性格はアーサイトの方がからりとしていて大胆。捕虜生活がアーサイトより長かったパラモンは思い詰めやすい繊細な性格として(舞台の時間経過はわからないけど、戯曲では数年単位でパラモンは1人で牢にいた)描かれている。
けれど、2人でいる時は、これはむしろ相手の方が言いそうでは?という台詞を言っている。
1回目は、一幕のアテネとテーベの闘いの前、テーベ国王のクレオンの暴虐について語っている時に、パラモンは勇猛さを誇り、アーサイトはテーベの人民を思いやっていた(台詞は忘れたのでニュアンスでどうぞ)。
2回目はすみません、忘れたので、次回梅芸で確認できたら。


そして、二幕のエミーリアを賭けた闘いの前に、アーサイトは軍神マルスに、パラモンは愛の美の女神ビーナスに祈りを捧げる。
2人の中で入り混じる価値観。闘いか愛か。
それは、水仙の花になったナルキッソスを例に挙げて、アーサイトとパラモンは相手の目に映る自分を愛している、と女たち3人によって語られる(原作にはない部分)ようなナルシシズムの強さを表しているように感じる。
けれど、ナルシシズムだけではなくて、シーシアスのように、一つの信念を貫き通すからこそ圧倒的な戦闘の強さ、兵を率いるカリスマ性が生まれるとも言える。
前者の愛の、融合性の危うさの部分を担ったのがアーサイトとパラモンで、強さを担ったのがシーシアス(と隠れて活躍するピリソス)のように見える。


しかし、そんなアーサイトとパラモンの関係が袂を分かってゆくきっかけが、エミーリアとの出会い。一方的な出会いだけど。
最初に見初めたのはパラモン。けれど、「君のように女神として崇めたりはしない、女として愛する(台詞はニュアンス)」とアーサイトは宣言する。
ここは、エミーリアを巡る2人の言い争いでは最初の方で、それなのにアーサイトがそう言い切ったということは、それまでも気になる女性を女神のように崇めて手が出せない草食系男子のパラモンの姿を見てきたからでは、と初見の後、戯曲を確認して思った。
初見後、パンフレットを読んだら、パラモンはアーサイトがエミーリアを愛したから愛したのではとあるけれど。
確かに、パラモン、始まったばかりの恋の争いにしては突っかかりすぎ。
エミーリアを奪われる、というよりも、自分の半身、従兄弟アーサイトを奪われるような気がしたんだろうか。
俺たちずっと一緒、のはずが暗雲立ち込めてきた2人の関係も、先にアーサイトが釈放・国外追放され、いよいよ2人の道が分かれることになる。


さて、実は幼馴染だったエミーリアとフラヴィーナの関係も(戯曲を読んだ時に、エミーリアの語るフラヴィーナの話がエミーリアの処女性を表すエピソードとはいえ、ストーリーの流れからすると蛇足と感じていたので、ナイツテイルで牢番の娘=フラヴィーナになったのは、これぞ伏線回収!と褒めたたえたい修正部分)、「私たちずっと一緒よね!」ていう小学校高学年くらいの女子の友情感満載で、アーサイトとパラモンとはまた違った精神的双子感があって、乙女だなあときゅんとした。


それは、フラヴィーナのパラモンへの思いの告白によって破られるのだけれど、実はエミーリアもアーサイトを愛していたという。
フラヴィーナ、再会に浮かれるエミーリアにそれを告白するのにすごく勇気がいっただろうに、お前もか!と思いつつ、ほっとしたと思う。
女子の方が切り替えが早い。
ずっと一緒にいたわけじゃないから、男性陣に比べれば既にそれぞれの道を歩んでいたせいもあるだろうけれど。
フラヴィーナの方が変化が早くて、心にずっと小さなフラヴィーナを住まわせていたエミーリアの方が、変化がゆっくりかな。


次は、後者の愛について。
違う価値観であることを尊び、これから同じ時間を共にしていくための愛。
最終的に、アーサイトとエミーリア、パラモンとフラヴィーナ、シーシアスとヒポリタの3組のカップルが誕生する。
後者の愛は、立場や価値観が違う二人の利害関係、対立をはらむ関係から生まれる。


牢番の娘フラヴィーナは父親に求婚の許可を得ようとしていた若者たちには目もくれず(きっとあの3人で牽制し合ってフラヴィーナにアプローチが伝わってなかったに違いない)、自分よりずっと身分が高いであろうパラモンに惹かれ、脱獄させた後、孤独と絶望を味わって気が狂う。
(蛇足だけど、なぜパラモンだったのか?萌音ちゃんはパンフレットで声が素敵だからと言っていたけれど、小さい子が背の高い人に惹かれるのもあるあるだと思うので、萌音ちゃんと井上さんの組み合わせはナイス)


パラモンは牢に1人取り残され、牢の場所も移り、心の中のアーサイトとエミーリアの姿を追うばかりの日々の中で、フラヴィーナが外界との唯一のつながりとなる。


アーサイトは釈放されたものの、アテネから国外追放を命じられ、身元を偽ってアテネで生きる道を選ぶ。


一方的にアーサイトとパラモンの2人から求愛されたエミーリアはどちらを選ぶべきか悩んで選べず、決闘が行われることが決まり、自分の存在がなければと悩む。


ヒポリタは敗戦国の女王であり、アテネの王妃になるとは言え、立場は実質人質。
夫、という概念がなかっただろうし、自分の夫になる男、自分が王妃となる国は自分の一生を捧げるに値する国なのか、自分はどうあるべきなのか、葛藤しながら自分のアイデンティティを探り、駆け引きしている。


シーシアスは登場人物の中では一番思いやりのある成熟した人、という印象だけど、アテネの王として、ルールを体現し、国を率いる立場にある。


決闘に負け、エミーリアと結婚できない方は死ぬ。それがアテネの決まり。
アテネの決まり(価値観?騎士道?劇中で何といったか忘れた)とテーベの決まりが衝突する。
男たちはそれに従って硬直的に進んでいくけれど、それを乗り越えるために愛をもって一石を投じるのが女たち。
ダチョウ倶楽部かと思いましたけどね(笑)


思えば最初に登場する三人の黒装束の王妃たちも、異なる価値観をシーシアスに迫る存在だった(最後、ヒポリタとエミーリアとフラヴィーナも同じメロディーと振り付けで歌っていた)。


単純に男女の違いに置き換えちゃうと、いつまで経っても誰も何も変わらなくて超えられない壁になってしまうので(東京千穐楽のカーテンコールで言ってた、アーサイトとパラモンが3日後にはまたケンカしてるに違いない、には同意だけど)、何となくこんなことを考えてみた。
まだ考えがまとまってない部分があるけど、考える材料がなくなってきたのでこの辺で。
続きはまた梅芸の後に浮かんで来たら。