二人であるということ
ブログを始めた当初に書いてて、いつ上げたものかと温めていたエントリだけど、1月1日のライブでの剛くんの発言が先を行ったというね。
ということで、上げます。
B'z、フリッパーズギター、KinKi Kidsと、気づけば私は二人組大好きファン人生を歩んできた。ちょっとここは世の二人組への愛について語りたい。
KinKi Kidsの二人のどちらが好きかというと、私はまごうことなく、剛くんである。まだファンじゃなかった20年前も、沼に沈んだ現在も一貫している。あのまなざし、あの声にやられる。
でも、光一くんも好き。二人でいるのがすごく好き。
好きな人がいつも一緒にいる人を知ると、その人を通しても好きな人のことを知ることができて楽しいし、そうこうしてるうちにもう一人のことも好きになるのだ。
そこには、もはやどちらの目を通して見ているのかなんてわからないし、区別なんて関係しなくなる世界が広がっている。
前に書いた「好きな人の好きは好き」法則の原型かもしれない。
それは稲葉浩志と松本孝広しかり、小沢健二と小山田圭吾しかり。
明確な役割分担があり、お互いを認め合いつつぶつけ合って高め合うプロフェッショナルな関係、10代を共に過ごした昔馴染みで、二人して毒舌で周りを煙に巻いて二人だけの世界を作り、解散してからはお互いの音楽について理解できないと言いながらしっかりライブに来ちゃう関係、二人の関係性にはいろいろある。
私はまだKinKi Kidsの二人の関係性を語る言葉は持たないし、上で書いたことも当人たちにしてみれば、痛し痒しかもしれないけれど、たった二人しかいない二人の関係性を見守らずして、何のファンだろうか。
フリッパーズギターの片割れであった小沢さんは、その昔、雑誌オリーブの連載の最終回、「無色の混沌」という美しい文章で、二人であることについて語っていた(原稿の締め切りを落としたり、鹿の尻尾はプラナリア、とかやってたのが嘘のように)。
以下一部引用。
「二人でいれば混沌としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。」
「そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテルー「仲が悪い」。オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。「お前らに言われる筋合いはない。」以上。」
引用は以上。
彼いわく、初めは全てを含んで未分化な無色の光であったのに、人は分類してナイフで分けて切りとろうとするのだ。乱暴にまとめるならそういうこと。
二人であることについて、または解散について、全く語ろうとしなかった人が、それを語るまでに解散から5年の時間を経ていることも重く受け止めたいと思う。
二人とはそれほどまでに分けられない美しさなのだ。そして、分けると消えてしまうのだ。
そんなことを噛みしめながら、混沌の美しさをこれからも見つめていたい。
と、くだくだ書いたけど、剛くんの言葉を借りれば、キンキ派、皆様おなじみの言い方で言えば、尊い、ってやつですね。一言で言い表せるなんて震える。